なんとなくね、どんな見た目の女でも男はヤれるし、どんな内面の男でも女はヤれるんじゃないか、なんてことを思いました。
twiiterのハッシュタグの「#魔女集会で会いましょう」は別に興味なかったんだけど、id:white_cakeさんがリツイートしたのを中心に見ていた。
それでやや抵抗感があったのだが
#魔女集会で会いましょう から見るはてな村周辺の老害化
「#魔女集会で会いましょう」とその反応
あたりを読んで興味が出たので改めでハッシュタグのページを見て涙したりしつつ「きんも~☆」と思ったw
他人の欲望が駄々漏れているのを眺めるのは面白いがキモイのである。
あれは老いたくない願望が素直に出てて素直に草だった。ええ、表現の自由ですからどんどん描いちゃってください。
はてなブックマーク - oktnzmのブックマーク / 2018年2月16日
しかし小児性愛をあそこまで肯定するのにはビックリした。「セックスは成長後にしてる!」とか言い訳もいいとこ。
はてなブックマーク - masudamasterのブックマーク / 2018年2月17日
ロリに比べてショタが肯定されがちなのは母性の一部とかぶる部分がある(と男女双方が認識している)からではないかと思うのだがどうだろうな。
男女逆にしても最近だと「魔法使いの嫁」とかもろそれ系か?
『魔女が拾った男の子が成長して、魔女よりでかくなって(ごつくてむさくてがっしりしてて)魔女を全力で愛して守る男になる話』
https://twitter.com/coneshait/status/961450980087808000
がお題であり、このお題に心くすぐられるクリエイターに女性が多かった、ということだろうか。
また、イイネするのも「そのシチュエーション萌える!!」=憧れる!!(そうなりてぇ!!)という感情の発露だと思った。
ここで魔女は定義されていない。だから、魔女は「あなた」かもしれないわけだ。「若いまま」という設定を皆が喜んで使っているのは「老いたくない願望」ととられても仕方ないよなー。
「拾った男の子」の解釈に「放っておいたら死ぬ」状況を書く人が多かったように感じた(厳密にカウントはしてないので印象論)。これってもろ「赤ん坊」のことで母性は「放っておいたら死ぬ」モノに反応してしまうのかも、と思った。
そして「全力で愛して守る」、この無償の愛系も母を連想してしまうのは私が母親にコンプレックスを抱いているからだろう。
つまりこの事象で私は母を連想し、母なるものが無力なものを都合よく育て、育った方が自発的に無償の愛を母に捧げることこそを母は望んでいるのだ、的なストーリーを読み込んでしまう。
そしてそれを正しい教育だと認識するならば・・・地獄しか待ってないぞ、的な気分になったわけだ。
で、それひっくり返すと母は美しく完璧な教育をしてくれて自発的に慕いたくなるような人であってほしいってことで女性への呪いになる気がしてねぇ。ちょっと引っかかるというか。大丈夫か? 若者達・・・とか思ったw
— elve (@test_hygienic) 2018年2月18日
私が女でありながら母へのクラスチェンジを失敗した人間だから、この物語から疎外されている事が原因かもしれないが。
誤字があるので打ち直すが
自身の欲望を男性は開陳するのがデフォで女性はそれを受け入れ自身のは慎み、みたいな文化だったのが女性も開陳する方向にいってるのだな、とか思った。私は男性も慎んで欲しいほうだったw
https://twitter.com/test_hygienic/status/965044602624344064
ともツイートした。
そんでタイミング的に偶然だろうけど女性専用車両の話が盛り上がってきた。きっかけの事件の詳細がわからないが、ある意味ケアが必要な弱者男性が弱者用の電車に乗ったのだと思えば正しいのかもな、とか、騒いで遅延させるよりも皆でさめざめと泣いてその人が降りるまでお通夜ムードで盛り下げて(?)差し上げればよかったのにw とか思った。
人はみな「放っておいたら死んでしまう」と思うのだ。その自分をどのように構っていくのか。
他人のそれを放っておけないという事で自分をケアしてるのが女性の本能なのだろうか。その女性に育てられた男性的には「女性が自分をケアしない」=死につながるので、女性だけの町にはケチをつけ、女性だけの車両には乱入して破壊したくなるのだろうか?
女性の母性とは特定の対象にのみ発動するわけで、無関係で健康な成人男性は恐怖の対象にしかなりえないということが男性には理解できないのであろうか。(冒頭の話で男性側は広い意味で無償の愛(どんな女でも抱ける)を提供しているつもりなのかもしれない、とか))
しかしたぶん、男性も男性は怖いだろう。だから女性のいない車両が怖いのは男性もなのではないだろうか。
その一方で人間は母(教育者)への怒りを抱えてるのではないかと私は思っている。教育とは洗脳であり虐待だからだ。
どちらがより強い気持ちになるのだろうか。あるいは私個人の問題だろうか。
ここで怖い女性になるか怖くない男性になるか、という選択肢を持って同一化を図るのは短絡的で実現不可能だと思われる。
多様化を否定する動きだし。
怖さを解析して分解して無効化していくしかないと思うのだが、トラウマに触れるとエポケー発動なのでうまく考えられないよなーとか思った。