スナックelve 本店

バツイチ40代女の日記です

子供が見ているでしょ・・・子供だった頃のあなたが見ているでしょ・・・


小さい頃、実家が商店でした。
もう、伝聞だったのか自分で経験した場面なのかも怪しい記憶です。

兄は今で言う発達障害のきらいが強くあって、集団から嫌われ暴れる問題児でありました。
まぁ平たく言うといじめっ子をよく殴るいじめられっ子でしたwwww
いじめっ子の一人がうちで万引きをしました。うちはもう家庭が荒れて商売どころではなく、杜撰な管理をしておりましたので気づきはしなかったのですが、子供が見知らぬ物を持っているということで問い詰め、うちの子がおたくで万引きをした、と万引き犯の親が怒鳴り込んできました。なぜちゃんと見ていないのか。なぜうちの子に万引きなどさせるのだ、と。
母は泣きながら謝っていました。

ソコから私の正義感はずいぶん歪みました。些細な窃盗犯も死刑にするべきだと思うようになりました。許せない許せない許せない。
でも、元夫は「(中高生時代)自転車は公共の乗り物だった」とせせら笑い、同居人は「ビニル傘はどこかから調達してくるよ」と言うのです(止めました)。
もちろん窃盗は犯罪であり、法的に彼らの発言は許されるものではないのですが、例えば道路交通法などになってくると、破らないと危ない場面も多々あるわけです。
そういうものとも共生していくのだ。ある一面でその人の全てを断じてはいけないのだ、などとわかったようなことを言えるようになる頃には40過ぎておりました。
清濁併せ呑むのは大変ですなぁ。

みたいな話を職場でしたら、上司が「でも、その窃盗した子供はソコで罰せられなかったことで歪む」「その歪みで一生苦労しているはずだ」とわりと熱く語っておりました。彼の中の正義感を刺激したのでしょう。
そう、ここで罰せられなかったことで彼には罪悪感がつきまとい、ある日、父なったりなんかしたときに、ふと自分はあの時、母親になんて酷いことをされたのだろう、と唖然とする瞬間が来るのかもしれません。
子供が見ているから正しいことをなす、のは大事なことなのです。

でもね、正直そんなの、どーだっていいし、好きに生きててくれ。死でても興味ないです。笑う気も泣く気もない。興味がない。
歪んだ正義を見せられた子供、それは私もだということが私にとってもっとも重要なのです。

ちょっと話を変えます。
私は家事の手伝いをしろ、と叱られたあるときの記憶が鮮明に残っています。兄と弟と3人で楽しくゲームで遊んでいたさなか、私だけが名指しで怒られたのです。
また、もっと幼い頃。兄が問題児であったのでよく叱られるのですが、その際、母は私を必ず横に立たせました。後に聞いたところ兄弟平等に扱いたかった、とのことです。

私はいつも自分を責める性格になりました。全ては自分が悪いという誇大妄想が止まらず自意識過剰になり、何もかも自分のせいだと思うようになりました。
兄はいつも横を向いて舌打ちしていました。すべて自分は悪くないのにいつも怒られる損な性格だ、と文句ばかり言っていました。ソレは母の言い分(「兄は可哀想」)と一緒でした。

私は母のことは好きですしいい人だと思います。でも信じていません。私の全ての判断基準に彼女の存在が関わっていることは認めた上でやはりそれを信じられません。
彼女は子供に理不尽を押し付けすぎました。
そういうものも含めて親子であると、飲み込んだふりはしていますが、長時間一緒にいるとやはり責めたくなってしまいます。母だけのせいではないのですがね。

理不尽で歪んで一生苦しんでるのは「私」なのです。

もう私もいい歳で、その時その時大人たちが一生懸命だったのもわかるのです。でもやっぱり、子供の前では正義がなされねばならないと思います。

正義の定義が難しーんだけどもさぁw