同人ブログ(?)写真と文に「地獄を歩くために」として書きかけてたんだけど何か違うからこっち持ってきちゃう
その時の苦しみは、その時しかわからない
自分のことであっても、苦しみというのはわからなくなってしまいがちだと思う。
なんでそんなに苦しいのか、なにがそんなに苦しいのか。
私は喜怒哀楽が激しくて、自身の感情の揺れ幅に振り回されて生きてきた。若い頃は特にひどくて、結果、引っ越しの回数も転職の回数も洒落にならない。
それで最近特に思うのだけど、自分の苦しみですら、後で振り返ると、変質してしまうなぁ、と。「あのときは、あれで苦しかった」の「あのとき」も、「あれ」も今の自分が思うものだから、その時抱えた「なにか」とは別物になっている。
その時、もう絶対越えられないと感じた苦しみ・・・でも、振り返ったら「絶対超えられない苦しみ(←超えた)」みたいになっちゃうじゃない?w
そこは超えられた者しか思い出せないしさ。超えられなくて死んじゃうかもなぁって毎度思っているけど、46にもなると「こう思っても死なないよな、なかなか」という感じも獲得してしまっている。
あの頃と変わること変わらないこと
すごくつらいし、周囲も自分も変わらないし、死ぬしかない、とか思って凹むんだけど、死んでも死ななくても生きている間は苦しいのよね。死んでから苦しくない保証はないのよね。死ぬまでが苦しいのは確実だし、もうちょい耐えていれば「過去」になってくれるのかなぁ・・・そう思ってちょっとだけ前を向いてなんとかしてきた。
今、私は仕事ができないことと、上司と合わないことなんかを悩んでいるんだけど、これももう、どうしようもないから時間が経つのを待っている。転職したての昨年12月のキツさはだいぶ薄れてきて、別のキツさが加わったりもするけど、小康状態を保っていると思う。
周囲も私に慣れてきたし、私も周囲に慣れて来たんだろう。
そして、ちょっとずつ、じゃぁ貴方はなんならできるの? って圧力に変わっていって、それはそれで苦しく感じる。この苦しみは今の私だけのものなのだなぁと思う。
その証を
「痛みは生きている証拠だ」は島本和彦先生の言葉だったろうか・・・。苦しみも生きている証拠だと抱え続けるしかないのかも。抱えているうちに色が変わるような、質が変わるような、そういうものなのだろうなぁ、と。
皆で逝かば
今すぐ自分の快適空間を、自分はなにもしないで得たい。
そう思っているつもりはないのだけど、つらくて生きることから逃げ出したくなるときは、もう自分を変える気力もなくなり、他責する元気もなく、現実逃避的に手首切ったり首にヒモ巻いたりしていたなぁと思う。
幼かったのかなぁ?
そうは思いたくないんだよ「今」の私は。
あのときの精一杯の努力の結果、周囲も自分も変わらない、そういう絶望の中で私は苦しみ続けていたんだろうと思う。今もそうだから。
超えられても超えられなくても、その先に行ったら今の苦しみは別の苦しみになるよ。どっちがマシかなんてわからないけどさ。
そんなこと、みんな知っているのかな? 私は46年かかったなぁ。
絶対に終わらないつらさの中を、絶対に終わらないと安心してゆこう
(なんか『ぼのぼの』でそんな話有ったなぁw)